Amigos No.83-2
2008年10月
=先号からのつづき= 風間 武喜
第1会場のサントドミンゴ教会(インカの石組みの上に建っている)、第2会場はアルマス広場、そして第3会場サクサイワマン要塞遺跡へと隊列は移動していくのだが、第1会場、第2会場はクスコ市内中心部にあり、人、人、人で身動きが取れないほどである。主会場であるサクサイワマンでは私たちは桟敷席でこの壮大なショーを見ることができた。今では宗教的な意義は薄れ、クスコ市に莫大な観光収入をもたらす一大スペクタクルショーといったところだ。出演者は700人以上にのぼると聞く。
6月25日、クスコからチチカカ湖畔のプーノまで380qのバスの旅。朝の冷え込みは厳しかったが、時間がたつにしたがってバス車内の温度はグングン上昇する。この行程の最高地点4230mのラ・ラーヤ峠に到着。峠からの眺望は私の脳裏から40数年来離れることのなかった原風景そのものだった。アドベ造りの低い小屋、カンチャの石組み、その近くにはアルパカや牛たちが草を食み、アルティプラの乾季の風が吹きわたる。 ついにこの地に到着できたという感慨がフツフツと沸いて出た。
峠を越えるとここからはクスコ県と分かれプーノ県。しばらく走るとチチカカ湖が見えてくる。プーノから船に乗り、数十あるウロス族の浮島の一つに上陸。フカフカのトトラの上を歩いていると何とも奇妙な体感であった。 6月26日〜27日、朝、ホテルのレストランからチチカカ湖の日の出を観る。壮大な朝焼け、感動の風景だ。ここからバスで約3時間、ボリビアとの国境の町に到着。
歩いて国境を超える。ここから船で約1時間、インカの祖マンコカパックが出現したという伝説の島、太陽の島へ。島の住民の営むレストランで食事。素朴な食材を素朴に調理しているので、かえって美味しく食べられた。陸へ上がって再びバスでボリビアの首都ラパスを目指す。そのうち、日がとっぷり暮れ、窓外は満天の星。その数夥しく、アンデス高地にいることを実感する。やがて、ラパス市を見下ろせるところにさしかかり、すり鉢の底の大都市ラパスの夜景に感じ入った。
翌27日、ラパスの朝は寒い。なにせ、標高3900mだもの。ビルの合間からこの町の象徴、雪を戴いたイリマン山がくっきりと見える。今日のメインはティワナコ遺跡見学。プレインカのおそらくアイマラ族の祖先の造った文明だろうといわれているが、詳しいことは未だに謎のままで、解明にはさらに発掘が進む20年〜30年を要するだろうと言われている。
夕食の後、希望者だけでペーニャへ行くことになった。ペーニャというのはアンデスのフォルクローレのライブハウスで、日本では今一番評価の高いボリビアのフォルクローレである。これを生で聴ける得難い機会なので私は当然参加した。下町にあるHuari というペーニャへ行ったが、二つのバンド、ダンスチームが登場し、演奏スタイルはややモダンだったが堪能し、ホテルでぐっすり眠った。
6月28日、旅の最終日、ラパスからリマへ飛行機で移動。残された目的、コマスの小学校への訪問が待っている。オプションツアーへ行く一行と別れ、私と同行のT氏はホテルでジャネット夫妻を待った。約束の時間より15分遅れて彼らはタクシーでやって来た。そのタクシーに同乗しコマスへ。かなり渋滞している市内を抜け、北の方へ約45分走って山の麓のコマス地区へ。だだっ広く埃っぽい道路を少し入ったところにその学校はあった。今日は土曜日で学校は休みなのだが、ジャネットさんが予め交渉して先生に来てくれるよう手配してくれたとのこと。CALOの寄付により増築された教室は入って一番手前の1階2階、それぞれ1教室ずつであった。学校全体は思ったより小ぎれいで、生徒たちが一生懸命整理整頓している様が思い浮かべられた。あらためて先生に野球帽とボールペンを手渡し、感謝の言葉をいただいた。
帰りの車中でジャネットさん(彼女の名前はJeannette Sampe)に名前と姓名の由来について聞いてみた。フランス風の名前は名付け親の関係らしく、サンペファミリーは日本のどこからと尋ねると、福島らしいですと答えが返ってきた。そういえば私の次女が今、福島県郡山市在住なので時々福島に行くのだが、会津かどこかで「三瓶」姓に出会ったような気がする。 ともあれペルー、ボリビアの旅は事故もなく、高山病にも罹らず無事終わった。あとは地球の裏側からの長い帰路が待っているだけだった。
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