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トゥクマン

   
   会員の和田さんによるウルグアイ版「街道を行く」(3)は、既に「Amigos49号」で掲載しましたが、紙面の関係で写真・本文等一部省略させて頂きました。折角ですので、ここで原文を紹介させていただきます。写真20枚も掲載しましたのでご覧ください。

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下記の本文の太字の部分をクリックすると、写真がみられます。

 翌朝9時に私たちを空港まで送るレミス(ハイヤー)がホテルに迎えに来てくれました。空港に向かう道路のロータリーにも例のベニヤ板を切抜いて彩色したようなモニュメントが立っていました。今度のは幼い男の子と女の子が手をつないで走っていました。それを見ながらレミスの運転手が「ウルグアイみたいだろう」とつぶやきました。その意味は今も良く分からないのですが、ブエノスアイレスのテレビのお笑い番組では、ウルグアイ人は田舎者でダサイと冷やかされていますので、多分コルドバの雰囲気に合わないと、そのモニュメントに運転手は不満を持っているのでしょう。

 さて、トゥクマン(Tucuman)はコルドバの北北西約600Kmほどに位置しています。そして、そこまで私たちを運んでくれるのは、乗客37人乗務員3人のDash8-100という双発のプロペラ機です。私たちが座った最後尾の座席はベンチのような5人掛けです。背後は荷物室なので、シートはリクライニングもしません。まさに市内バスよりも小さい感じです。幸いにも今日は天気が良く風も穏やかなので、この小さな飛行機でも不安はなさそうです。週末のためか機内は満席で、子供たちもたくさん乗っています。一人だけのスチュアーデスは子供たちが一緒に座れるようにと、乗客に席替えを頼んでいます。頼まれた乗客は快く移動し、皆が一緒に集まれた子供たちは早速ゲームを始めだしました。なかなか和やかな雰囲気です。恒例の安全講習もなく飛行機は簡単に離陸しトゥクマンを目指します。40分ほど飛行すると眼下に琵琶湖ほどもある塩湖(salinas)が見え始めました。日本で出版されている地図には記載されていないようですが、コルドバとトゥクマンの間の低地地帯には広大な塩湖が点在しています。湖の大きさは季節によって変わるのでしょうが、その地域は200Km四方もあるでしょうか? その地理的成因は良く知りませんが、海に続く河がないためでしょう。空から見ると塩で真っ白な波打ち際が続き、青く見える湖面にも白い島が浮かんでいます。地上がどんな様子が知りたくなりました。たぶん荒涼とした塩の砂漠が広がっているのでしょう。30分余り湖面の上を飛ぶと地上には再び緑が見え始め、約1時間半ほどの飛行の後、窓の目の前にあるエンジン・カバーから細長い脚がガタント飛び出し(高翼機でした)、飛行機は無事にサトウキビ畑に囲まれた、トゥクマン空港に着陸しました。出口には先住民系の風貌をしたタクシーの運転手が名前を書いた紙を広げて私たちを待っていてくれました。遠いモンテビデオで予約しても、ちゃんと誰かが出迎えに来てくれるのには、旅行の度に何時も感心します。

トゥクマンは南緯27度ほどに位置しています。北緯では沖縄本島と同じくらいの位置関係です。従って、私たちが旅行した7月初めは南半球では真冬ですが、ここではサトウキビが青々茂げり、京都の冬と同じくらい寒いモンテビデオから来た私たちには、真夏のような感じがしました。今度のホテルは市内中心の独立広場に面した一等地にありました。但し、私たちの部屋は広場と反対の裏側で、景色はよくありませんが、窓からは教会の青い丸屋根と更にその向こうには高い煙突の製糖工場が見え、その煙突からは灰色の煙が盛んに立ち昇っていました。多分燃料にサトウキビの絞りかすを使っているのでしょう。そう、トゥクマンは製糖で有名な都市です。

ここでトゥクマン市を簡単に紹介しましょう。この都市は1565年に一度建設された後に、1685年に街道の要所である現在の場所に再建設されました。正式な名称はサン・ミゲル・デ・トゥクマンと呼ばれています。標高は約400mの高地に位置し、1991年の調査では都市圏の人口は60万人となっていますが、その後の経済発展を考えると現在は更に多くなっているでしょう。先に製糖で有名と紹介しましたが、世界的な砂糖消費の減少に対応し、農作物の多様化と工業化につとめ食品、繊維、電子機器、農業機械などの産業も発展しています。トゥクマン地方では冬季はほとんど雨が降りませんが、年間降雨量が800mmから1000mmもあるそうなので、多様な農作物の生産が可能でしょう。郊外に出るとサトウキビ畑の他にトウモロコシ畑や柑橘類の果樹園が広がっていますし、街路樹も柑橘類でミカンのような実がみのっていました。トゥクマンは歴史的にも由緒のある町で、181679日にリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合の独立がここで宣言されました。この時が同時にアルゼンチンの独立の日として定められ、それに由来する歴史的文化財がこの都市の誇りになっています。

ホテルでの休息もそこそこにして、早速市内見物に出かけました。そして、思いがけなく現在のアルゼンチンを象徴するような出来事に遭遇しました。ホテルを出たすぐ横に小さなキオスクがあったので、冷たいミネラル・ウオーターの小ビンを買いました。代金を払おうとアルゼンチンの5ペソ札を出しました。すると、その店主はここではアルゼンチン・ペソは使えないと受取を拒否しました。米ドルならOKというのでドルで支払ったら、アルゼンチン・ペソの硬貨でお釣りをくれました。何が何だか良く分からないので、ホテルに戻って、レセプションで確かめました。その話では、ここトゥクマン地域ではアルゼンチン・ペソの他に2種類の紙幣が使われているとのことで、その実物も見せてくれました。大きなレストランや商店ではアルゼンチン・ペソが使えるけれど、小さな商いではアルゼンチン・ペソは好まれないし、ペソ紙幣そのもの流通量が少ないとのことでした。一つの国の中で中央政府の発行する紙幣よりもローカルな紙幣、と言うよりもクーポン券のようなものが信頼されるとは、私たちには何とも信じられないことでした。誰の言葉か忘れましたが、中南米の歴史には三つの相克があるというのです。即ち、先住民対征服者、本国対植民者、中央対地方です。このローカルな紙幣も中央政府の腐敗(これがアルゼンチンの経済的混乱の原因と指摘する人もいます)に対する地方の反乱でしょうか? 

話が脇にそれてしまいましたが、市内見物の方は、独立広場に面したカテドラルを最初に訪ねました。外観はバジリカ風でピンク色をしています。ウルグアイの教会もアルゼンチンの教会も十字架像よりもマリア像の方が目立ちますが、このカテドラルの正面祭壇もエル・グレコの「受胎告知」にそっくりの壁画です。このカテドラルは1856年の建設で、比較的に新しいので装飾が簡素でした。独立広場に面して1912に完成したフランス・バロック風建築の州政府官庁(Casa de Gobierno)もあり、その前には「自由の火」が灯されています。これも美しい建物で、特にその内部の「白の間」の美しさは定評があるそうですが、土曜日で閉館されていたので、外観を楽しむだけになりました。この建物に隣接して、聖フランシスコ教会があります。この教会の建設が何時だったか聞き漏らしましたが、たぶん17世紀ごろでしょう、古色蒼然としていて植民地時代の特色が濃厚です。内部は薄暗くて祭壇もその背後の壁面もくすんだ金色をしています。ここにも優美な姿のマリア像や荘厳な聖者の像が安置してありますが、ここで私は初めて茨の冠を頂き血まみれの姿で横たわるキリスト像に出会いました。マリア像の祭壇の下に横たわるキリスト像。この構図はその後、北の方の教会では常に出会いました。ウルグアイやアルゼンチンでも南の方にはなかったと思うのですが、これはスペイン植民地時代の教会の特徴でしょうか? 次に訪ねたのは、ホテルの窓から青いドームが見えたメルセス教会(Iglesia de la Merced)です。ここはステンドグラスが美しい明るい教会です。しかし、この教会の天井画には特徴があります。即ち、ここの教会の聖母マリアは、将軍マヌエル・ベルグラノ(General Manuel Belgrano)指揮下の北部軍の守護聖者であったので、1812年の独立戦争で彼らがトゥクマン近くの戦場でスペイン軍に勝利した出来事が描かれています。この都市では愛国心が濃厚なのは、その後の出来事でも気が付きました。その日の見物はこのくらいにして、この教会の前のカフェで軽い夕食をしました。そのとき私たちがウエイターに最初に質問したのは、ここではアルゼンチン・ペソが使えるかということでした。幸いにも答えはOKでした。

あくる日は日曜日。カテドラルのミサから帰ってくると、ホテルの受付でモンテビデオからバスで着いた旅行社の経営者兼ガイドのC氏が待っていてくれました。彼の会社は小さいのですが、中々に有徳の人物で、北部アルゼンチンの貧しい学童たちの援助をしていると後で知りました。バスの一行は昨日の10時にモンテビデオを出て、今朝の8時にホテルに着いたとのことでした。ここまでは直線距離でも1300Kmほどあるので、思ったより早い到着です。午後の4時半までは自由時間だと言うので、ホテルのカウンターにオプション・ツアーを依頼しました。しばらくすると案内のタクシーが来ましたが、それは何と昨日空港まで私たちを出迎えに来たのと同じタクシーでした。何処へ行きたいのかと聞かれたのですが、何処に何があるかも分からないので、適当に案内してくれと頼みましたら、最初に市の北部30Kmほどのところにあるダム湖(dique)に連れて行ってくれました。この湖は先日行ったコルドバ近くのダム湖よりは小さいようでしたが、トゥクマン市の飲料水の水源になり、発電所やリゾート施設がありました。帰途は本道をそれて山の中を迂回する道を通りました。道は適当にカーブを描いていますが、よく舗装されていて、ここではサイクリングが盛んだそうで、所々にロッジがありました。道の両側には様々な種類の木々が茂っている原生林が続いているのには感心しました。その風景に見とれていると、何時の間にかトゥクマン市を見下ろす高台に着きました。市街地よりは300mくらいは高いでしょう。ここには高さ28mの石造りキリスト像(Cristo Redentor)が市を祝福するように右手を上げて立っていました。1942年の建設だそうですが、ちょっと荘厳実に欠けているようで感心できませんでした。

さて、午後4時半にモンテビデオから来た一行と一緒になって、市内見物に出かけました。スペイン人が建設した都市は、中央広場の周囲に教会や政庁などの重要文化財があるのが普通なので、この市のガイドに連れられて、歩いて教会やMuseoを回りました。広場には自由の女神像が立っていますが、ガイドが面白い話をしてくれました。この像はイタリアの巨匠の下で勉強したトゥクマン生まれの彫刻家の作品で、最初の像は胸も露な薄絹を着た女神像だったのですが、19世紀末の当時の人々には不道徳と映ったそうで、現在の像は重そうな衣装に包まれた姿でした。その他にも公園には、独裁者として有名なロサスに反抗し斬首された、トゥクマンの或る指導者の首を置いた石などがありました。この都市の性格にはストイックで反中央的な傾向もあるのでしょう。その後で訪問した歴史博物館(Museo Casa  Historica)の展示品もその傾向を示していました。このMuseoはトゥクマンの建設から独立宣言に至るまでの歴史的遺品を展示していました。夜にはここで「光と音のスペクタクル」があるというので、一度ホテルに帰って後で、暗くなってから旅行者一同は、この都市の群集と一緒に再度訪問しました。私たちは何か娯楽的な催物と思っていたのですが、全くの思い違いで、ちょうど明後日にせまった79日の独立記念日にちなんで、Museoの展示物に照明を当てながら、歴史的出来事を声優たちが語る記念行事で、最後はアルゼンチン国歌の合唱で終りました。アルゼンチンの経済危機を愛国心を鼓舞することで乗り越えようとしている当局の思いがあるのでしょう。ウルグアイはこのラプラタ連合とは対立する形で独立したので、この記念行事に対してウルグアイからの旅行者は相当に複雑な感情を抱いたのではないでしょうか? 私には“Libertad, Libertad!(自由、自由!)と繰り返す歌詞の一部が耳に残っただけですが…。(つづく) 記:和田義一